旅から戻ってもう一日であっという間に日常に戻る。
昨日は、さっそく仕事、締め切り間に合わせに東奔西走。
っていうか、現場肉体労働から書類内務業務に西走、ってな感じです。
もうすでに癒した体がかなり疲労してます。明日のもちつき大丈夫かな・・・。
ただ、「仕事があるだけまし・・・」。
そうよく言われるし、僕もそう思う、今のこの世を見ていると。
ただ、雇用にこれだけ問題があるこの国は、この世界は、確かに何とかせんといかん。働きたきとも働けない現実。また、もっと問題なのは働けるのに働かない人達・・・。
では、行って来ます。
労働を噛み締めてきます。
今日は2008年12月の日記を再放送します。では。
『2008年とは・・・。
今年は(例年かな・・・)、自分の発言で自分を追い込み、他者から物議、物議と言えば、まだかっこいいよ、「失笑」「怒り」「残念」といった方がいいね、他者を怒らせました・・・。
いろいろ思い出せばあります。今日は今年を振り返るって事で二つ、思い出し、今ここで少し、一考してみようと思います。
この間の11月下旬。組合青年部での僕の質問。
「『差別を失くそう失くそう!』と組合は言うが、僕は「差別」」というのは現にこの世にあるから、「差別」があっても『逞しく生きる』、そう思う」。
その後、市役所の職員で青年部組合員の同世代の若者4人ぐらいに反論を頂く。
これは長い人生にいい勉強になった。こうやって「言葉狩り」とは言わないが「言葉の誤解」は生まれていくのだな、と思い知らされた。
そして、ここで今思えば僕のこの発言の動機は。
「組合に差別を失くそうという資格はないと僕は思う。
組合から僕は厭な思いを受けたことがあるから」。
でも、僕はそんなのは友人佐々木や小野に助けられ、嫁に救われ生きてきた。
逞しく生きるしかないと思ったのです。
組合が差別をどうこう言うなら、まずは市役所内にある自分らの差別や問題に挑んで行くべきだと思う。僕はあくまで「差別を失くす」と言うより「差別をしているかもしれない」という立場を忘れてはいけないと思います。これからも「差別」と言う問題はタブーにせず、しっかり論じてゆくべきだと思います。もちろん、組合でも、友人との会話でも、テレビでも、新聞でも、世間話でも。「言葉」をどうこうより、「発言の背景、経緯」も一考すべきだと思う。市民が、大衆が、「このテーマでは何も言えない、何か怖い」という空気に風穴を開けていかねば、ね。
どうも、ありがとうございました。
もう一つの、失笑を生んだ発言。5月21日の「裁判官と語らんね」。
「被告人を反省させ更生させていくのは誰か?」
すぐさま、どこぞの中年女性が「本人やろう・・・」と。
その時の部屋の空気は「こいつ、何言うてるのやろうか・・・」。
まぁ、今思えば、うん、確かに自分でもよく言ったな・・・と思います。
あの時の僕の心境は苛立ってました。ある参加者が質問しました。
来援5月21日から実施される裁判員裁判。
「証拠写真の生々しさをわかりやすくするため、CGやイラストにするのはどう思いますか?」と。裁判官は「いいと思います」と。僕が思うにはその生々しさでないと真の議論はできないと。そして、写真でもわからない事が多々だと。たった三日の話し合いで簡単に結論が出るだろうか・・・。
また別の質問者が「話し合いもできない人が来たらどうするのですか?」と。
皆、裁判員裁判について「私はこう思うのですが、裁判官はどう思いますか?」という、自己がどう思うのか?が欠落している。僕はだったら敢えて聞いてみたい、「きちんとした話し合いと言われている審議、それは全て完璧でしょうか・・」。「いい話し合いって誰が決めるのでしょうか?」。
死刑判決にしても、裁判所だけに任せっきりで、絞首刑の時は刑務官に任せる。もちろん、それは仕事だからやるのだが、犯罪というものはいつ自分の身に降りかかってくるかわからない。「自分は関係ない」という姿勢ではまた同じ思いを持つ被害者が増える。加害者もホントに猛省するかは疑問。
ある意味言わせれもらえば、僕は未成年の喫煙をしっかり注意する。確かにその時は一瞬脈は上がるし、土壇場を考える。でも、そいうった子供たちの軽犯罪や軽いルール違反を僕ら大人が全てを許せば、もっともっと犯罪は増えてゆくと思うのです。だから、僕は社会が必死で犯罪被害者を生まないように頑張れば、その頑張りでも犯罪があるならば「死刑」はあっても仕方ないと思う。でも、今この社会で、どれほどの人が他人の子も我が子のように叱ったり、話したり、また犯罪者を生まないように向こう三軒両隣、努めているでしょうか・・・。僕も、もちろん、まだまだです。そういった苦悩の中で起こる犯罪ならば、その犯罪を起こした人間だけが罰を受ければいいというものでもないと思う。「死刑」で済ませればそれでいいというのであれば、この社会に光はない。でも、死刑を望む犯罪被害者家族も多々ですね。そうです、そういった諸々を、それぞれにある苦衷、関わる人が出来得る限りの「当事者意識」を持って、大いに議論すべきだと。それの第一歩が、幅広く多くの国民が参画型で議論する場の「裁判員制度」ならば、この国の国民の思考を深めるという意味で、僕は賛成です。
まぁ、参画型で僕の思いを、失笑されても、馬鹿にされても、発言した事で僕はまたいろいろ熟考できました。これは間違いなく、僕の本当に思う疑問をみなさんにぶつけられたからだと思います。人生においてもっとも大切な事は「勇気」かもしれませね。
総じて。この二つの発言で今年も自己の思考を深められた気がします。
ありがとうございます。
例年より、何かを背負ってないぶん、2008年今年は問題発言、僕が思うには問題提起発言、発言しやすかったです。2008年って、「思考を深める」って事で言えば、出力による「入力」で、良い勉強ができました。では、また。』