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長野県知事選について。
・大衆には好きなようにやらせておけ。それでも田中氏はよく頑張ったよ。あれはドンキホーテ的頑張りである。
長野県知事選で田中康夫氏が落選した。
やっぱりなあという感じである。そろそろ引き時というわけである。
県政の改革に乗り出して合計、6年の任期をつとめたが、最後はまあ石持て追われるような気持ちで去っていく。
別に長野県民は石を投げたわけではない。そんなことはいっさいしていない。ただ改革を旗印にして県民の期待感を必要以上にあおってしまったら、いずれこうなるのは目に見えていた。
よそ者はよそ者である。革命を起こそうとしてそれに打ち込んだが、革命よりも人々は現実を見つめて生きている。
現実の中で生きているのだ。最終的にはその人たちの判断、決断が決め手になる。これは仕方がない。
だって田中氏はこういったら悪いが知事の立場を失っても生きていける人である。そこの部分は決定的ともいえるのだ。
日本という国は都会も地方も今やどうにもならない。改革は絵に描いた餅と同じ。もうその〝改革〟という言葉は聞き飽きた。
禁止用語にして欲しい。政治が政治として機能しない。現実(社会)はそれよりもはるかにタフにして困難な状況になっているからだ。
よそ者はただ去るのみ。それでいいのだ。田中氏には6年間、ホントにご苦労さんと言いたい。独裁専制とかわがままとかひとりよがりと言われてしまったら、もうジ・エンドである。
もはや流れに身をまかせろである。大衆は大衆である。彼らは個人ではない。どんな時代でも大衆の気分は最強である。
ある時は熱にうなされたように支持者になる。しかし時が経つと急にその熱はさめる。その繰り返しなのだ。なるようにしかならない。
大衆には好きなようにやらせておけ。それでも田中氏はよく頑張ったよ。あれはドンキホーテ的頑張りである。そこは最大限に評価したい。
「よそ者」「情熱」「正義感」「余計なおせっかい」「孤立」「敗北」。
まあ、よくあるパターンの一つとして田中氏はヒーローであったことには違いないのだ。