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1、私がもう一度ラグビーに携わった理由

1973年、8月の26日に産まれ、この夏で33歳になりました。
いろいろあったこの33年間で唯一、続けているものって言えばそう、12歳の4月から始めたラグビーフットボールです。今年で21年間です。
中学で溝渕先生に出会い、このスポーツを始めることができました。
当時、宮崎県では、3つの中学校でしかこのスポーツに携わることができませんでした。
その富島中学校も去年の夏、後輩たちが富島中学校ラグビー部初めて九州一に導いてくれました。
「大輔、ゆうすけ、柏田、川口」おめでとう、そしてありがとう。
田中さん、堀口さん、ホント苦労が報われましたね。
そうです、子供を指導するって何かを犠牲にしないとできないのです。
できるわけないのです。
あなた方はその犠牲に現代では死後となった「ロマン」を感じたのでしょう。

高校に入って直ぐに部に入る。
高校3年の夏に初めてボクはラグビーの面白さを実に感じました。
ボールをもって前に走る面白さを。
その頃から節賀恩師はボクを褒めてくれました。先生に褒められるってホントうれしかったなぁ~。
その秋の大王谷運動公園での練習試合に初めてボクは親を呼びました。
「今度の日曜、試合があるから、来てみらんヶ?」と。
来てくれた母親は「あんたにはじめて誘われたわ」って言ってました。
で、観戦後、「誘うだけあるわ」って息子の活躍を喜んでくれてました。
その練習試合。ボクは節賀監督に試合後のエンジンみなの前で
「慎吾のように、ラグビーが楽しくてしょうがないっていう感じでやるといい」
と言ってくれたのを今でもボクは鮮明に覚えています。
先生ありがとう。

そうです、怒る大人も大事だし、「いいものは良い!」って言える大人も必要なのです。
子供の頃はある意味、親に先生に褒められるために生きているのではないでしょうか・・。
褒めることってホント重要です。

高校を出て、南日本ハム、浪人一年(体育大学受験失敗)、フリーター(八幡、UMK、カラオケボックス、飲み屋、ガソリンスタンド、測量補助、プール監視員・・)、そして24歳の年からボクは市役所に入りました。親父の「市役所の現業受けてみろ」って言葉で。
そうです、いつもきっかけは親であり、先生なのです。
僕らは今一度、子供の模範である事を自覚しなくては。

そして、今年で市役所勤務10年目です。
環境整備課に8年。で、今建設課に2年目、勝負の年です。
しっかり有給をとりながら諦めずに頑張ります。
そして、しっかり休みます。ありがとう、そしてご迷惑かけてます。

浪人中もアルバイト生活の時も、役所に入ってもずっとずっと続けてきたラグビー、楕円のスポーツ格闘技。ボクはこのラグビーに育てられたと言ってもいいでしょう。
ラグビーをやって、やってきて、やり続けてきてホント良かったです。

もちろん途中辞めたい時、止めたい時、病めた(い)時ありました、山ほど。
嫌気がさして、この間、「ボクがラグビーを辞めた訳」をアップしたし・・(笑)・・(謝)。
何より社会人クラブ日光の時の5年間の主将時代は苦労しました。
「何で俺だけか!」「口ばかりのコノヤロー」「お前に言われる筋合いは無い」・・・。
ホント生意気にも思いました。僕自身は僕自身の哀しみに実直で、故に「自分だけが・・・」って感じでいつも石ころを蹴飛ばしてたようです。
そう、所詮、人間、トドノツマリ、自分自身しか信じれないのです。
ボクの、あなたの、「人生」、闘うしかないのです、頑張ります。

最近いじけ気味のメール配信、ネットアップ、ご迷惑かけてます。
またこの人生をリセットして再スタートする所存です。
何よりまずは母校日向高校に架けてみます。

これまで生きてきた経験を、受けてきた苦労を、大空に赤面する後悔を、青の時嬉しかった衝動・・・すべてを彼らに託したいと。
そう思ってます、多少大げさですが。
次期首相が誰であれ、安部さんであれ、ボクには所詮関係ない。
僕自身はボク自身の半径5m、直径にして10mを熱くしてゆく、それに架けてみます。

僕はこう思うのです。
日向高校でボクの息子達が楕円を追う限り、ボクはこのスポーツを続けられると。
嫌になっても戻れる「ふるさと」があるように。
ありがとう。後輩たち。ホント、君らが居てこその僕である。
ありがとうありがとうありがとう。

ありがとう。

最近やっと戻れました。

待たせたな・・・

なんちゃって・・。

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