旅記。
★「あとがき」
思ったより、反響があった、今回の林田バングラへ。
平岡さんや嫁に「なんで、慎吾はバングラやと?」、もろもろ、いろいろ聞かれたみたい。
赤木光秀なんて、「嫁さんが定額給付金で忙しい時、アン奴は何を考えているのか?」と嫁に言っていたと。赤木君、心配ありがとう。無事帰って来ました。
アサンに出会った頃をずっと、知っている大坪さんは「そのまま、住むかと思った」と。
日本に帰ってきて僕が今一番思うは「町は綺麗。でも、何か寂しい我が国」。
そして、「町はホントに汚い、でも、人々が感情もろとも生きているのがバングラデシュ」。
ただ、街がきれいで衛生面が充実するとバングらはもっともっと、良い国になるだろう。でも、あまりそれを気にし過ぎると何か人間の大切なものを失っていくのかもしれない。という事は、人間の大切なものってのは実は、「汚いもの」なのかもしれない。
ただ、わが国には治安がある、そして下水道がある。そして僕の大好きなウォシュレットがある。経済成長が齎したものはかなり我々の財産にもなっている。
普通に水道水が飲め、ガンガンうんこができて、毎日風呂に入れる。
そして、電気が指一本で付く世界は実は世界では少数派みたいです。
停電は日常茶飯事のバングラで、夜電気なしで着替えたり、バック整理をするのは大変。でも、すぐにアサンの叔母さんがロウソクを持ってきたりの助け合う習慣も日常茶飯事で、人間の気持ちという電気は24時間である。
いろいろな経験、というより「体験」だな、体験ができたこの一週間。
僕のこの旅行のきっかけを作ってくれたアサン。
2006年7月に東京モノレールでたまたま横に座ってきた当時22歳の彼。彼のお陰です。ずっと、4日間、ボディガード件ガイドをしてくれました。
最終日にアサンの生まれ育った村に行き、彼と彼の友人で作った学校を案内してもらいました。最低限の学校は国が作っても、障害者の児童を受け入れる学校は皆無の国に、彼らはお金を出し合い障害者向けの学校を造った。
今、その学校は障害を持つ児童の受け入れ先になっている。10人の子供を受け入れている。アサンの友人はその学校の社会福祉士として働いている。アサンの幼馴染で先輩の彼に、その学校や、児童の家をガイドしてもらう。
東京で働き、妹3人の学費を仕送りしながら、自分の学費も稼いでいる。
そして、ここ一年くらい前から、障害を持つ児童の学校を作り、援助している。
月に5千円。来月からは1万円にするという。
その児童の家で僕は児童を抱っこしたり、お父さんお母さんの必死な顔、生活を目の当たりにして、考えさせられてしまう。
その親父さんは一人の稼ぎで一家6人を食わせていると。
仕事はバングラでもっとも下に見られている靴直しの仕事らしい。
それでも、必死で生きている。もちろん、僕には何もできない。
ただ、その国に捨てられ、どうしようもなく困っている児童がそしてその家族がいる事実を感じてはきた。世界的にも本当の意味での弱者って誰だろう・・・。
あと、バングラは日記でも書いているけど、ほとんどの国民がイスラム教。
ドライブ中に寄る、インターチェンジレストラにも、村にも、都会にも、学校にも、どこにもトイレがあるように、お祈りの部屋がある。
バスの中でもその時間になったら、前に座っていた老人がお祈りをしていた。
ただ、アサンも言うように真面目にするのは年をとってからだんだんとそうなって来ると。もちろん、若いころからずっと熱心にお祈りをする人もいるが、そうでない人も少なくないと。イスラム教は厳格で少し怖いってのも実は人によるし、国によるのだと思う。
アサンのおじさんの仕事は国立美術館のマスターで博士。その美術館でも自分たちの宗教や、食文化や生活習慣文化を結構、飾っていた。また、パキスタンとの戦争や独立した意味など、披露していた。
僕は、イスラム教がどうこうとか、そうではなく、まずは自分の国の仏教を少しでも勉強してみようと感じたよ。まずは自分だと、わが国だと。
そして、僕は今、この国に戻ってまた自分の生活を生きてゆく。
この旅の「体験」はこれからの僕の人生観にジワジワと効いてくるだろう。
人生はやはり、自分で感じない限り何も事は成せない、始まらない。
これからも僕は「飛び込むこと」を忘れず生きてゆく。
長いこと、読んでいただいてありがとうございました。
そして、アサン、ありがとう。
快く旅に出してくれた嫁、ありがとう。
心配かけたね、今、帰って来ました。
ありがとうございました。
バングラの皆様、ありがとう。