お早うです。今日は7月25日(水)。
伊達 忠亮 (2012/07/17 22:59):
林田 慎吾 (2012/06/14 13:44):
のやり取り、です。
『時間がある時、返信ください。いつでも、良いです。
伊達さんがいろいろな活動を通して、今思う、
「この社会のもっともの問題」は、なんですか?
次回の僕の討論会に活かしたいと思います。』
「返信できずにごめんなさい。
7月の討論会は、鹿児島で会議をやってました。
今ごろ申し訳ないけど、
自分なりに考えるもっともの問題は2つで、
1つは「この社会をどんな社会にしていくかが、全く語られない」。
2つ目はそのためには資本主義とどう向き合うかが必ず問われるけれども、もちろんここでもダイナミックな討論に至らない。
この2点だと今は考えてます。
政治の場で社会のイメージ・信条が語られないといけないし、マスコミもそれぞれの論点・論拠があるのなら、主張しなければならない。でも、それがなくて、起きている事実を後追い、もしくは歪曲したり都合よく加工・演出して騒いでいるだけ。国会も政策論議ではなく延々と意味のない政局論議だし、過剰労働や非正規化、貧困化が進む有権者・労働者サイドも、目の前のことしかみれなくなって、矛盾を抱え込んでいることを覚悟のうえで、しかしそれを問題にできず、日常を追いかけている。現実問題よりもAKB・夢精に走ってしまう。
どう生きて、どう働くか、自分の人生の意味、社会的な役割・意義が語られない。
だからこそ、その矛盾や、その中で考えるストレートな気分、主張、アイデアをフランクに話すことを、職場・生活の場で作ることが大切だなと。みんな、どこにぶつかって働いていて、まずは自分の分野の中でどう働き、生きたいと思っているか。それぞれの考え・思い・事実があると思う。これを自由に交流して、集約して、変える・守る共通項やイメージを共有することが必要だと思います。
あと資本主義。どんなにきれいごとや理想を抱いて並べても、冷徹な資本主義の前では吹き飛ばされてしまう。マルクスの言うとおり、意識する・しないに関わらず、社会の真実の姿は階級闘争。資本を持てる者と資本を持たずに労働力しか持っていない者の社会富をめぐった綱引きが経済であり、そのときそのときのその綱引きの程度・システムを決めるのが政治。すごく科学的な話だけれども、単に右左のイデオロギーの話に単純にすり替えられて、資本主義そのもののこと、仕組みが冷静に議論されない。
資本主義の障碍になるのが「共生」という理念・事実づくりで、そういう点では小沢一郎の「自立と共生」という主張は方向性として間違っていないと思うけれど、彼も事実を問題にするより、パワーゲームを追いかけている。アメリカに目をつけられていて、雄弁に語ることを避けているかも知れないけれど、時代を先駆けるスタイルに欠けて、限界がきていると思う。
資本主義の矛盾を追及すると、どこかで共生の仕組みづくりを主張・実践しないといけないし、それが資本主義のシステムの中で無理であれば、日本がアジアの代弁者として世界に向かって提起すればいい(例えば国際的な賃金・ワークルール基準など)。でも原発や労働奴隷が差し迫った社会問題にはならない。資本主義というシステムの根幹に関わる問題だから。いい加減分かりきったことなんだけど、真剣に議論されない。「産業衰退するじゃん」とか、自己責任・能力論に刷りかえられる。それでは、延々と使う人間・持てる人間と、使われる人間・持たざる人間の役を、その時代その社会の誰かがこなすことだけになってしまう。
資本主義の矛盾(社会の事実)を提起して、悩み、一歩前が作れるかどうか考えていく。この切磋琢磨がないと、人間社会は成長していかないと思う。いつまでも江戸時代の構造と基本変わらないし、誰かに委任・依存し続ける社会になる。そして大衆は表面や特徴的なことを指摘・批判するだけになる。
物事の背景・構造を見出して、指摘し、決して特定個人の責任問題に終らせず、社会・制度矛盾であることと何を変えるべきか明らかにしていくこと。
この作業が必要だし、いわゆる社会企業家というのは、そこにトライしている人が多いと思う。今は政治家よりも、そういった人が具体的に物事を生み出している。政治よりずっと直接的で、醍醐味を感じていると思う。そういった人たちのアクション・言動と、自分の身近な職場を比較するのもおもしろいかな。」