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片田さんよりお便り、来ました。

お疲れ様です。
経済という言葉の語源は、中国の古典にある「経世済民」の略語であると言われています。
世を治め、民を救うという意味でして、従来もっと広く政治も含んだ意味だったようですが、貨幣経済の進展等によって、エコノミーを指すようになったそうです。
日本語が素晴らしいのは、パクリとはいえ、このように大きな哲学的本質も包含する単語が、ごく、単純化して活用されているというところですね。日本語においては、エコノミーはまさに、民を救済するということが究極の目的なのです。
いかに、最近の経済施策が、経済と言えず、違和感があるのは、こういう理由からかもしれませんね。成長については、林田慎吾さんご指摘のとおり、これも日本語から紐解けば、成長とは、量的側面よりも、主に質的側面の発達を指す言葉と言えます。しかるに、自国の通貨価値を下げて、質的に薄めることが、経済成長の政策とは、明らかな矛盾であります。
これは、輸出企業拡大戦略であり、成長戦略ではありません。
経済の成長とは、富の再分配をすることにより、国民一人一人の生活の安定と、生産性の向上を図り、より省力で、より豊かで安全で、持続的な活動を可能にしていくことですよね。
そして、貨幣経済が幅を利かせている現在ですが、愛や思いやりという貨幣価値に換算できない経済に不可欠な要素を、いかに積極的に評価していくのか。
志賀さんの研究課題にも通じますが、商業ベースに乗らない、そのようなものを財として、経済の中に位置付けていくことが出来るのは、まさに行政が行っているサービスだと思います。
林田慎吾さんが、抱いている考えや思いは、これから、地方自治の現場でこそ、結実すべき課題になるのではないでしょうか。

続きですが。
林田慎吾さんも、ご存知の通り、今の政治の役割として、グローバリズムのただ中にある経済をコントロールすることは、不可能であると思います。
昨日も申し上げた通りですが、国際経済において、政治的な国家主権を表象する関税を障壁として否定しているのが、現在のグローバル経済の姿であり、政治はまさしく、その動きを追認し、経済にいかに従順に飼い慣らされるのかを、競っている状態です。
しかし、政治において必要なのは、先ほども書いたように、人を生産手段や商品や、消費する媒体のように見做すグローバル経済の流れから、いかに国民を守っていくこと、その一点に尽きると思います。貨幣価値に個性が無いように、グローバル経済においては、人に関する個性は不要かつ邪魔なものです。そこには、水や空気やお日さまや歴史や文化も、非効率であれば、遠ざけられる定めとなりますが、そんな生活をしている人間の社会は、成長も成熟もしているとは言えない。数日前に、林田慎吾さんと同じようなメールを志賀さんからも、いただきました。
それぞれの立場は違えども、危機感や焦燥感、違和感や不信感を共有している仲間は貴重ですし、そのプリミティブな思いが、前へ向かう何かの力に繋がればいいですね。

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