閉塞感。
「日向市を変えるには」。
日向市という「街」が変わる事を指すのではなく、また伊勢ヶ浜等のスポットや観光客がこの日向市を変えるのでもなく、日向に住む、住民がこの街を変えるのだと。
そう、生かすも殺すも我ら、腐るも再生するも我々、なのです。
では、今日は巷にある二つの言葉で考えていこう。
一つ目。
今、正に社会問題となっている海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故で自衛艦側が思っているであろう「先に、謝った方が負け」。
日常で起こる我々の事故、事件の審議を問う裁判など、正当性や正義を争う時、この言葉がよく言われる。僕の母親も、2年前僕が事故した時、「謝ったらいかんよ!」と言う。
結局は僕が3、相手が7の過失でした。
事故直後、やはり相手は「すいません」と言ってきたし、僕は「赤やろがっ!」と。
が、僕はこう思う。
謝るより、何より、僕は事実認識が先だと。
だからこそ、僕は18歳である相手の運転手の親を呼ばせ、助手席にいた女の子の親も呼ばせた。
そして、しっかり把握してから「謝罪」せよ。
簡単に謝るより、事実を把握してのものでないと、後々面倒になるから。
二人とも親は来ました。双方とも母親でした。世の女性達に敬意を表します。
世間は疑うべきものです。と同時に、信じてみることも大切だと思う。
僕は自分が悪いと思ったら、直ぐに謝ろうと思う、そうしていくつもりです。
僕の母親は、「慎吾は人がいいから、悪いやつに誤魔化されない様に」との願いだと思います。
わかります。が、いずれ、この日本社会は、もっと議論や対論に慣れ、国民レベルが慣れ、カンカンガクガク議論をする事をあたり前にならないと、前には進めない気がする。
僕は自分が議論や検証のうえで、結局、騙されたとしたらそれは、腹をくくります。
だからこそ。
「先に謝った方が負け」というより「まずは事実認識の為に、真っ先に意見を出し合おう」。
そしてもう一つ。
親が子に言う「あの子とは遊ぶな」。
言っておく。こういう親が多ければ多いほど、その街は駄目になると。
「でも、我が子が不良とつるんで警察沙汰になったらどうするんですか?」
「それは、その子に、人を見る眼を、眼力を、洞察力を、付けさせるしかない」
自分の付き合う仲間は、子供でも大人でも自分で考え自分で選んでいくべきなのです。
そう、失敗の中で。
そう、いろんな人との付き合いの中で。
僕の両親は、僕のことを「産まんければ良かった」とは何度も言ったけど、「あの子とは付き合うな」とは一度も言ったことは無い。
親父なんて「やくざは悪くない」とも言ってました。トホホ・・・。
そうです、どんな人間でも生まれて直ぐの悪はいないのです。
もちろん、善もいない。
人は皆、怠けるものです。油断すれば、直ぐに駄目になります。
そこを、なんとか親の躾や、社会の模範等で少しずつ矯正されてくるのだと思う。
それが、いろんな理由で妨げられたりして犯罪や事件は起こってゆくのでしょう・・・。
だからこそ、大人が敬遠しそうな子こそ、手を差し延べるべきなのです。
もし、どうしても、その子と遊んで欲しくないなら、自分の子が自分の判断で離れていくように仕向けるしかないでしょう。
二つの言葉。
この日向市にも充満している、「先に謝った方が負け」「あの子とは遊ぶな」。
意識なのです。閉塞感とは、意識なのです。
閉塞とは、社会の感じではなく、自分の内側にある思いなのです。
そう、自分自身が生み出している感情なのです。
僕がこの街の長になったら、まずは、住民との徹底した対論、議論を交わし、そして、一人ひとりが、自己の洞察力(すぐれた観察力)をもてる様、この街の事実認識から入ります。
以上です。
佐々木君の提案に感謝します。
嫁の嫁周辺のゴタゴタに僕は僕なりに取り組んでいきます。