結論から。
裁判員制度は「人を裁く」のが意義ではなく、「自らを問う」という事が最大なる意義である。
そう、裁判員制度は「僕自身」である。
来年5月21日から、始まる裁判員制度。
あなたも僕も選ばれたなら(くじで)、地方裁判所へ行き、目の前の被告人を裁く事になる。
だいたい3日間、仕事や学校を休み、裁判官3人、裁判員6人で刑の重さなど議論してゆく。
本当に、もう待ったなしで、誰かにお呼びがかかるって事です。
この制度の詳細は、それぞれがネットや新聞で知るって事で、ここからは僕自身の思いを主に書いていきます。
この間も書いている通り、5月21日に宮崎地方裁判所へ行く。
いろいろ思うことがあります。
その時他の参加者から出た質問や疑問をここで書く。
もちろん、裁判官への質問である。が、今回はその質問に僕が応える、勝手に。
題して、「裁判官と語ろう」ではなく「俺が応える」(笑)である。
質問一。(20歳くらいの産経大生)
選ばれた人の中に、悪ふざけで来る人もいると思うが、そういった人達で刑を考え決めていいのか?
林田慎吾裁判員。
「まったく、問題ない。むしろ悪ふざけで来る奴こそが大切で、そういった悪ふざけな奴も、懸命に必死に考え来る人真面目な人も、いつも法でしか考えない裁判官も、混ぜくり合って、異質だからこそぶつけ合って被告人の残虐さを、これまでの生い立ちを、議論していけばいいのです」。
質問二。(50歳くらいの女性)
刑を決めるのはやはり、荷が重い。精神的苦痛を感じると思うが・・。
林田慎吾裁判員。
「覚悟して行うべし。この社会で生きている以上、苦痛や苦悩はもう、受けて立つしかないと思うよ。
僕自身、この先、加害者になるかもしれないし、もうすでに、僕の自覚のないところで加害者かもしれない。そしてまた今後、妻や、両親や、甥っ子達が被害者になるかもしれない。
これまでは、その場合の犯罪の「その後」をすべて裁判所に一任していた。
国民同士の事件も、何もかも、「国家」に任せている。
その権限や参加権を国民にも戻し、共に考えていく、法のスペシャリストと一市民たちが。
そこに、この制度の何かしらの希望がある、考えなくなった国民が、「おまかせ民主主義」的な、「おまかせ司法制度」が、これからは国民参加型で行われる。そこに、苦痛は確かに伴うかもしれない。
けれど、それは本来、「見るべきものを見てこなかった」を指すのではないだろうか。
そして、国家側で言えば、「見せるべきことを見せてこなかった」って事でもあると思います」。
質問三。(別の産経大生)
遅刻して来たらどうするんですか?
林田慎吾裁判員。
「お前は何しにここに来てるんだ?
すいませんってしっかり謝るのみよ。
その後、遅刻したバカ野郎がどうなるかは、残りの8人に任せろ」。
質問四。(また別の産経大生)
~何か忘れたが、裁判官の発言の間違いを指摘する。
「お前も、ホントに何しにここに来てるんだ?
少しでも自分が物知りとでも言いたいのか?
ネットや誰かの受け売りの頭でモノを考える人間は得てして、議論や公の場で「話し合おう」って気はなく、自己の受け売り知識をヒケラカシ、指摘していくとこしか考えない。
先生!書き順が違いますって指摘する生意気な生徒のように・・・。
お前がどう思うか?だけでいい」。
質問五。(産経大の先生)
「生々しい犯罪の写真などコンピューターグラフィック化して、裁判員達に苦痛のないように、また分かり易く提示していく」、というのが今日の新聞に出ていたけど、それをどう思いますか?
林田慎吾裁判員。
「反対。生々しい写真があるからこそ、しっかり検証できるし。
そして、どの写真を提示するかは、それは全部。でも、検査官や検察が、しっかりすべてを記録して欲しい。やはり、偏ったものではいけないし。ただ、人間だから多少は偏る。
だからこそ、偏ったなら、もう一方にも偏って、証拠や写真を提示して欲しい」。
一部ですが、そんな感じです。
さて。
この会で、僕が一番感じたのは
「被告人を反省させ更生させていくのは誰か?」
です。
山口県光市の事件。本村さんの奥さんと子供殺害事件。
まだすべては決まっていないが、僕は今回の死刑判決は妥当だと思う。
死刑制度は無くしていくべきだと僕は思うが、今回は考えれば考えるほど、「死刑」の方へ考えていきました。
今、この元少年は死刑が確実になってきている今、やっと、初めて、自分の罪に向き合っているのではないでしょうか?。向き合わざるえないと。
「自己主張の場」としか考えていないと思える人権派の弁護士達。(どこが人権派だ?)
また、彼を「自己思想実現の道具」にしか考えていないように思われる彼ら。
このままでは彼はホントに反省、猛省をしないまま裁かれ、死んでゆく。
被害者家族にとって、これ程、辛いことはいない。
やはり、僕は、被告人に「ザマアミロ」と正直思う自分もいるし、また、こんな弁護士達に何もできない僕を情けなくも感じる。
反省をすべきは、もちろん元少年。
でも、知らず知らず(いや、でも、結構自覚もしている人もいると思う)、そういう犯罪者を生み出している社会にいる我々でもある、考えるべきは。
逮捕されて面会に来た父親からは最初に「死ね」と言われ、今では絶縁状態に近い。
家庭内暴力を小学生の頃からこの父親から受け、同じ家庭内暴力を受けていた母親は元少年が中学一年の時に自殺している。
母親恋しさで奥さんをレイプしたのはうそ臭い。
でも、母親恋しさはやはり心に、今でもあるのは事実だと思う。
母親も、息子を残して、なぜ自ら死んでいったのか・・、僕はそれにも腹が立つ。
息子を連れてどっかに逃げれなかったのか・・。残念です。
そして。
涙を流し、「反省しています」と目の前で訴えかける被告人に、あなたは「死刑」を宣告できますか?
その涙は噓かもしれないし、一時のものかもしれない。
でも、本当に猛省しているかもしれない。
そして、首を絞めて殺し、亡くなった後にレイプし射精し、亡くなった母親に寄ってくる乳飲み子を叩き付け殺した被告人。
どう裁きますか?
そして、その弁護士は「ドラえもん」とか「魔界転生」とか・・・、どう裁いていきますか?
でも、だからと言って、すべてを司法の権限に、お上に、官に、法の専門家だけに、「任せる」のは良いとは思わないし、「裁判官だけに背負わせる」ってのは社会としてあまりに脆弱である。
政治にも、「投票」や「意見交換会」があるように、司法にも参加が不可欠になってきている、そう思う僕は裁判員制度に賛成です。そして、選ばれ、しっかり休みをもらい、じっくり議論して検証して活きたい。
この今回の会が、僕自身、興奮したまま終わり、そのまま「詩季」へ。
興奮したまま、持参していたノートパソコンにカリカリやっていた時、誰かが僕に囁いた。
「おい、慎吾、さっきまで偉そうに言っていたが、その興奮を文章にまとめてどうする?
行動をせよ。お前にはこの宮崎市で「やるべきとこ」があるだろ!
パスタ食ったら、早くそこに行け!」。
直ぐにパソコンを閉じ、従妹の子がいる宮崎市の若草病院に面会に行きました。
3年前位に、解放病棟に居た彼は、今回行った時は病状が悪くなり閉鎖病棟に居ました。
何とか僕を覚えてました。
僕と話して開口一番。
「慎君、俺は、一生ここ!
ここにおらんといかん。
上が決めた!」。
彼は12年前位から精神分裂病です。
この会で偉そうに発言し、裁判を肌で感じて最後に思ったこと。
それは、やはり。
「人間は、「誰かの書物」でもなく、「独り善がりの文章残し」でもない。
自分自身が日々どう、考え、どう、行動していくか」だと。
読書も文章も知識も、それは手段である。
この会も、裁判員制度も、「どう裁くか?」、「どう発言するか?」、「しっかり裁けるか?」よりも、
「今後の自分自身の明日の為にも、思考を深くする良い機会」
ではないでしょうか?
明日からの行動の為に、今日、目の前の事件に、犯罪に、しっかり向き合う、そのように思います。
この裁判員制度が今後10年後にでも、「ジャパン裁判員スタンダード」が世界に誇れるようになれば。
長い時間、長い文章、読んでいただき、ありがとうございました。
5月24日(土)AM11時50分。林田慎吾。自宅にて。